「太陽光による発電と原木しいたけの栽培はとても相性がいいんです」。コナラやクヌギを“ほだ木” にしいたけの菌を植え付け、一般に流通する菌床栽培よりも歯ごたえも風味も勝る「原木しいたけ」を生産しているJAつくば市谷田部産直部会の高橋さん。それが2011 年の原発事故で状況は一変。約14万6千本の原木は廃棄せざるを得ませんでした。新たな原木を探し全国を回ると同時に、ほだ場自体森の中の環境を作り出すため、湿度や日照の調整ができて可能なかぎり放射性物質が混入しないように対策をしていくなかで、着想を得たのが太陽光発電でした。
ソーラーパネルをハウスの天井代わりに利用すれば、放射能対策にもなるうえ、売電収益を通じて放射能対策費や、落ち込んだ消費を回復すべく原木しいたけを広める製品開発費などに活用できると高橋さんは考えました。「震災前も震災後も、太陽の日差しは変わらずこの土地を照らし続けています。風味豊かな原木しいたけをこの地で作り続けると決意した私たちにとって、自然のエネルギーで電気を作ることは単に新しい事業を始めることを意味しません。“故郷で挑戦し続けること”の象徴でもあるんです」
私たちはずっとここ岩手県内で代々続く養鶏農家さんとともに、パルシステムの組合員のみなさんに『までっこ鶏』をお届けしてきました。 なので、いま発電所で働いている社員22 名は、所長である私も含め、実は全員が発電については素人なんです。
じゃあなんで発電なんか始めたの?ってよく聞かれます。 ひとつは年間5,000 万羽の鶏を飼育しながら、毎日400トンも発生する鶏糞を有効活用できないか ―これまでは堆肥に還元してきましたが― という長年の課題を解決したい、という目的がありました。
しかしそれ以上に、やはり東日本大震災の教訓が大きいです。従業員のなかには家族が津波の犠牲になった者もいます。故郷を襲った未曾有の災害を経て、私たちが社会に貢献できることはなんだろう、と考えたとき「発電」というアイデアが自然と生まれたのです。
今では供給する電気は約4,800kW、一万軒分くらいの電気量になります。 1t の鶏糞を燃やすと100kg の灰が残りますが、この灰も肥料原料にして循環していくので、いっさい無駄なものは出ないんです。 これこそが子どもたちの未来に残してあげたい、安全で安心なエネルギー。これからも鶏たちとともに歩んでいきますよ!
長年、養鶏に取り組む私たちは、かねてよりバイオマス発電はできないか試行錯誤をしてきました。 毎日60万羽から生まれるダンプカー6台分の鶏糞は、どうしても臭気問題を引き起こしてしまう。 これまでは鶏糞を天日乾燥、ときには火力乾燥させ、発酵させてから肥料に循環活用していましたが、臭気自体はどうしようもなく、ときにはクエン酸をかけて抑制する方法もとってきました。
しかしそれでも限界はある。だからこそ、鶏糞を発酵させることで生まれるメタンガスが電気のもとになると聞いて「これだ!」と思ったのです。
しかしことはそう簡単ではありません。 バイオマス発電には巨大なプラントを建設する費用と場所が必須。 そこでまずは地域に点在する鶏舎の屋根に太陽光パネルを載せ、再生可能エネルギーの実践を始めてみよう、となったのです。
すると、組合に加盟している養鶏農家さんたちも「おもしろそうだな」と関心を持ってくれる。 そうして仲間の意識の高まりも踏まえながら、遠くない将来、バイオマス発電にも挑戦しようと思っています。
「集落を流れる野川は、昔"暴れ川"として有名だったんです」と語るのは、JA山形おきたまの生産者、工藤誠一さん。 朝日連峰の雪解け水は肥沃な大地を育みながらも、ひとたび大雨が降るとその実りを無にしてしまう顔も持っていました。 そこに2011年、上流にダムが完成してから状況は一変します。
「時を同じくして発生した原発事故で、福島からたくさんの方がここにも避難されていました。 何か力になりたい!と思っていたところに、"せっかく整備された水路の水を使って発電しよう!"というアイデアが生まれました」
そうして生まれた「野川小水力発電所」。 ダムから流れ込む水は24時間、365日、年間で約108万kWh(およそ350世帯分)の電気を生み出しながら、そのまま麓の田んぼを潤しています。
「原発に頼らない社会はきっとできる。そのためにも私たち大人が子どもの未来のために何ができるか考えないと―― もちろん、おいしい米を作り続けるよ!」と工藤さん。 「私たちにとって、野川は切っても切れない存在。この"電気の川"はきっと、子どもたちの世代にとっても大切な恵みの存在となってくれることと思います」
50数年前に日本最大の干潟だった大潟湖を干拓してできた村が、いま私たちが暮らし、農業を営んでいる大潟村です。 海抜マイナス4メートルのまっ平らな土地なので、田畑に水を入れるにも排水するにもポンプを使う―― つまり、電気は欠かせないんです。
原発事故の教訓もあり、村役場と地元企業が連携し、村民も参加したメガソーラー事業に取り組むようになったのは自然な流れでもありました。 私自身、パルシステムにコアフード米をお届けする産直産地「オーリア21」の代表も務めていましたが、農業とエネルギーで自立した村づくりを進めたくて、いま村長として先頭に立っています。
村の成り立ちが「開拓」だったこともあってか、村民の絆はとても深い。 この太陽光発電所を作るにあたっても、その基金に対して全村民3,200人の4割近くが出資してくれました。
長らく村は減反政策に翻弄され、今は米価の下落でなかなか先行きが見えにくい。 だからこそ子や孫の代まで安心して暮らせる"土台づくり"に人生をかけたいと思っています。
福島第一原子力発電所での事故後、千葉で農業を営む私たちも、放射能問題の対応に追われました。 畑に降ったかもしれない放射性物質の除去のため、ひまわりを一面に植えて吸着する実験をはじめ、ありとあらゆる取り組みをしながら、残留放射能の検査も繰り返す日々。 実害とともに風評被害にも翻弄されるなかで、私たちができることは「事実を追求し続けること」だけでした。
私は代々ここに土とともに生きてきた生粋の"農民"です。 このあと朽ちることがあっても、子や孫の代までこの豊かな土地を守り、おいしさの詰まった野菜を作り続けてほしいと願っています。
だからこそ、あの経験は忘れてはいけない。いまだに故郷に帰れない方がいる事実に向き合いながら、「信頼」とは何か?「育てる」とは何か?ということを問い続ける責任が、私たちにはあります。
畑の上で太陽を浴びるパネルは、その決意の象徴なんです。 毎日畑に出て、天候に左右されがちなパネルがなんとか電気を作り出すさまをメーターで見ていると、だんだん可愛くなってくるんだよね(笑)。 この私の最後の仕事は、こいつたちと未来を作ることなのかな、と思っています。
いっしょに働く仲間とは"家族的"につながっていくのが、私の理想。 社内に託児所を設けたのもそんな思いからでした。
加工場で働くお母さんは安心して仕事に集中でき、昼時には子どもといっしょにごはんを食べる。 毎日笑い声が絶えません― 私たちは「野菜づくり」が仕事ですが、働く人とも、それを食べてくださる方とも、いっしょに「循環」していけたらもっといいものが作れると確信しています。 そんななか、今取り組んでいるのが「エネルギーの循環」なんです。
高校の卒業論文は「風力発電」でした。 自然のエネルギーを巡らせることで、社会が豊かになるなんてすごい!って思ったんですね。
それから25年余。 東日本大震災が発生し、改めてエネルギーのあり方を考えさせられ、太陽光発電事業に挑戦することに。 その話を組合員さんたちに話してみたところ、みなさんとても賛同してくださって、「再生可能エネルギーは、周りの人も明るくする力があるんだ!」と実感しました。 今後はさらにバイオマス発電にも挑みながら、「循環ある社会づくり」に関わっていきたいと考えています。