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社会貢献活動レポート

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第31回 枯損木の根元に芽吹く緑が、島を包む日を願いながら 「ふるさとで暮らしたい…三宅島のいま」 社会的責任と生協事業
▲みやけじま〈風の家〉の食事風景。
利用者のみなさんといっしょに
パルシステムでは、2007年3月に行った「ポイント交換」のなかに、景品のほかに「三宅島帰島支援カンパ」を加えました。2005年2月の帰島以降、新聞などで三宅島が取り上げられることはほとんどなかったのですが、なんと約635万円もの支援が集まり、組合員のみなさんの三宅島に対する関心の高さを知ることができました。「被災地が本当に大変なのは、新聞などで取り上げられなくなってから」といわれます。三宅島はいまどうなっているのでしょうか。5月に行われたカンパの贈呈式に同行し、三宅島の「いま」をレポートしました。

依然として噴出する火山性ガス

▲枯損木(こそんぼく)と
住めなくて放置された家屋
三宅村では2000年7月に発生した噴火災害により、同年9月に全島民が島外に避難しました。この全島避難は2005年2月の帰島まで続き、避難生活は4年5カ月に及びました。
帰島が行われてからすでに2年が経過しているのですが、三池港に降りたとたん、鼻についたのは火山性ガスの臭いです。帰島したとはいえ、依然として火山性ガス(硫化水素)の放出は続いており、島では、いまもガスマスクの常時携帯が義務付けられています。とくに高濃度のガスが放出されている坪田地区、阿古地区の一部ではいまだに居住が許されていません。

島中の至るところに、火山性ガスで枯れてしまった木(枯損木/こそんぼく)が立ち並んでいます。かつては青々とした葉を茂らせていたであろう木々が、真っ白に立ち枯れている光景、噴火により侵食され、倒木に覆われている山腹の風景は、噴火の激しさをいまも生々しく伝えています。

▲噴火のあった2000年7月
のままの村役場の
ホワイトボード
樹木の被害は山のもつ保水力を弱めてしまいました。三宅島の降水量は年間2907㎜、年間降水日は150日(平均)。この降水量は東京都区内の1・7倍にあたります。大雨が降ると山から土砂や枯損木が流れ出してしまい、天草など、海産物に被害が出ているとのことです。また鉄砲水などが集落に押し寄せる危険があることから、水害を防ぐために各所に砂防ダムや治山ダムがつくられています。砂防ダムは泥流をくいとめ、土石や流木を溜める施設。また治山ダムは沢の勾配を緩やかにして、沢の侵食を防ぎ、泥流を防止する効果があります。しかし一生、砂防ダムをつくり続けるわけにはいきません。一刻も早く、緑を蘇らせることが必要です。

高濃度地区では、枯損木に覆われた山々を背景に、放置されたままの家屋が並んでいます。修理することもできず、なかには半壊状態のまま放置されている家もあり、噴火災害はほんの数日前に起きたのではないかと錯覚させられます。この5年間、そこの風景だけ時間が止まっていたかのようです。

40%に迫る高齢化率

▲砂防ダムと雄山
2000年の三宅島の総人口は約3800人でしたが、現在は約2500人。災害前に比べて1300人も減少しています。帰島後の高齢化率(65歳以上の割合)は5月末現在で36・4%となっています。東京都全体の高齢化率は18・9%(2007年1月1日現在)ですので、非常に高い数値であることが分かります。しかし、現在の三宅島は、高齢者の公的な支援体制が整っているとはいえない状態です。三宅村・村民生活課の替地千穂子課長は「とくに、家族がいない方は公的サービスでは支えきれず、最終的には東京に出て行かざるを得ない状況です」と言います。多くの方が、住みなれた三宅島で暮らしたい、ふるさと三宅島で最期の日を迎えたいとおっしゃっているそうです。そんな当たり前のことが、いまの三宅島にとっては非常に難しいことなのです。「時間をかけて、一つひとつ解決していきたいと考えています」(替地課長)。

高齢者問題は、若者問題でもあります。現在、三宅島の18歳以下の人口は1割を下回っています。すでに帰島から2年が経っているのですが、お父さんしか帰島しておらず、お母さんとお子さんはそのまま都内に残って都内の学校に通学しているという家庭が多いそうです。また、0〜6歳の未就学児の人口は避難前に比較すると2分の1以下にまで落ち込んでいます。

帰島はしたものの次世代を担う若い世代がいない。三宅島では、高齢者問題と合わせ、若者の就労の場の確保、子どもを安心して育てることのできる環境、そして教育環境の充実が求められています。

みやけじま〈風の家〉

「よくまぁ、こんな辺鄙なところに来てくれましたねぇ」。『みやけじま〈風の家〉』を訪ねると、たくさんのお年寄りが、うれしそうに迎えてくださいました。この『みやけじま〈風の家〉』は、被災者の加齢と島の高齢化課題に挑戦するひとつの試みとして、島民自身が運営しています。「仲良し」と「支えあい」をキーワードに、島で暮らすさまざまな人が「集まり」、そして「つながる」場所として開設されました。料金は無料(食事代のみ300円)で、島内の協力者がボランティアで食事の準備などをしています。

建物は、三宅島の名棟梁、故・宮下英雄さんによって20年前に建てられた古い民家です。「棟梁に学ぶ家」として日本建築学会の三宅島研修所に使用されていたものを、日本建築学会の厚意により、無償で借用することができました。「バリアフリーとは対極の建物ですが、善意はそれを超えることができるんですよ」(三宅島災害・東京ボランティア支援センター事務局長 上原泰男さん)。風の家のルールはたったひとつ。「ご飯を食べるときは、みんないっしょに食べる」です。長期に渡る避難生活は、三宅村という地域社会を失うことでもありました。利用者のみなさんは、帰るときに口をそろえて「次に来る日が待ち遠しい」とおっしゃいます。一軒の古い民家が、一度バラバラになってしまった三宅村民のつながりを取り戻そうとしています。

これからの三宅島

三宅村の穂積副村長は、「これまでの2年間、島民は帰ってくることで精一杯でした。これからはやっと身の回りに目を向けられます」と、これからの復興に期待をかけます。しかし、三宅島のみなさんが元どおりの生活を取り戻す道のりは平坦ではありません。島が自立していくためには産業がなければなりません。道路など、島の基盤整備は進んだものの、産業の復興はまだこれからです。

都市と地方の格差、地方行政の財政破綻などが問題となっている現在、「離島」である三宅島が、産業、福祉、教育など、さまざまな課題を抱えながら復興を進める姿は、効率優先で進んできた社会が抱える問題を象徴的に現しているようにも思えます。

けれども、地域によっては、枯損木の根元に新しい緑が芽生えつつあります。この緑が島全体を包む日が来ることを願いながら、パルシステムではこれからも三宅島支援に取り組んでいきます。

*本ページの内容は2007年7月時点の情報です。最新の情報とは異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

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