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2000年6月に始まった三宅島雄山の噴火によって島民は同年9月、全島避難指示に従い三宅島を後にしました。そして2005年2月の避難指示解除まで、4年半にわたる避難生活を余儀なくされました。パルシステム連合会は、避難直後に設立された「三宅島災害・東京ボランティア支援センター」の活動に参加。三宅島支援の活動を続けるとともに、島の特産品を商品カタログで扱うなど支援を続けてきました。また2005年2月から8月まで実施された「三宅島島民帰島支援ボランティア事業」にも毎回ボランティアを派遣し、島民の皆さんの生活復興に汗を流してきました。ボランティアとして参加した連合会の事業支援・くらしサポート事業本部共済事業部FP事業課長・吉村一正さんに三宅島の現状と、参加した思いについてお話を伺いました。 吉村さんが参加したのは2005年7月17日から23日まで。17日の夕方、一行7人で竹芝桟橋を出港、翌日早朝、三宅島へ到着。その後ボランティア事務局・宿舎である伊豆地区の老人福祉施設に行き、ここで支援の内容の説明があり、派遣先が決められました。吉村さんは、阿古地区のお宅での体験を語ってくださいました。
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吉村さんは「SO2で自由に歩き回ることもできない島に、なぜいま帰りたがるのか」わからなかったといいます。生活に必要なインフラもまだ完全に復旧しておらず、人も戻っていないため店舗も少なく生活は不自由です。島がそんな状況なのになぜ、戻りたいのか、それはふるさとだからなのか、東京のほうが便利ではないのか…。しかし、ボランティアとして島で過ごし、島の人たちと交流しているうちに、『東京の団地に入居した島民にとって、東京という場所がつらかったのではないか、島とは違う人間関係がつらく耐えられなかったのではないか』と思うようになりました。 「おいしいものがあったら隣におすそ分けをする、互いに声を掛け合って暮らす、数少ないインフラをみんなで仲良く使ってきた…島で育まれたやわらかな人間関係、そして『風』…三宅に帰ってきて、『風が懐かしい』と言っていた人がいました。僕も京都で暮らしてから東京に帰ってきた時、同じように感じたことがあります」(吉村さん)。 |
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ボランティアはみんな赤い帽子をかぶっています。空き家になった家で作業をするため、一目でボランティアとわかるようにするためです。吉村さんは、竹芝桟橋で帰りの船から降りるときに、この帽子を見た島民から「ごくろうさま!」と声をかけられたそうです。また、吉村さんと同時期に活動したあるボランティアは、三宅島からの帰りにこの帽子をかぶっていたところ、都内の電車の中で三宅島出身の女子高校生に声をかけられたとのこと。赤い帽子が、そしてボランティアが、島民の皆さんの中で大きな存在になっていることが分かります。帰島支援には897人のボランティアが参加。うち、生協からは112人が参加しました。 2005年9月2日の三宅村の発表によると、同村の帰島世帯は1247世帯、帰島者数は2158人。帰島世帯の割合は75.8%、帰島人数割合は67.6%。SO2の発生がおさまり、ガスマスクなしでも暮らせるようになるまで、まだ時間がかかるのかもしれませんが、一日も早く島の人々の暮らしが戻ることこそ、ボランティアに参加した人々の願いでもあるのです。 |
*本ページの内容は2005年12月時点の情報です。最新の情報とは異なる場合があります。あらかじめご了承ください。
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